良い教材とは何か: 疲れる教材と疲れない教材
記事の概要
「研修を受けても、途中から頭に入ってこない」
「動画は見たのに、いざ業務で使おうとすると手が止まる」
「教材は充実しているはずなのに、受講者の理解度にばらつきがある」
人材育成の現場では、こうした悩みが少なくありません。特にAIや生成AIのように、専門用語・画面操作・概念理解・実務適用が同時に求められるテーマでは、受講者が「わかったつもり」で終わってしまうことがあります。
このとき重要なのが、単に「情報量を増やす」ことではなく、受講者の認知負荷を適切に設計することです。認知負荷とは、学習中に頭の中で情報を処理するためにかかる負担のことです。認知負荷をうまく設計できている教材は、受講者にとって楽なだけではありません。むしろ、理解すべきところに集中でき、実務で使える知識として定着しやすくなります。
本記事ではこの内容を深掘りし、何が認知負荷を高めるのか、どうすれば余分な負荷の小さい教材を作れるのかを整理します。
学ぶのがしんどい?
疲れる授業
「疲れる授業」と聞くと、講師の話し方や受講者の集中力の問題だと思われがちです。しかし、学習のしんどさは、もっと構造的に起こります。
たとえば、オンライン研修で次のような情報が一度に提示されたとします。
- 講師の音声
- スライドの文字
- 図解
- チャット欄
- デモ画面
- コード

さらにAI研修であれば、プロンプト、生成AIの回答、ツール画面、業務への応用例も出てきます。
一つひとつは有益でも、同時に処理しなければならない情報が多すぎると、受講者の頭の中では「どこを見ればよいのか」「何を覚えればよいのか」「今の操作はなぜ必要なのか」を判断するだけで精一杯になります。
学習科学の観点では、人は新しい情報をまずワーキングメモリで処理し、それを既存知識と結びつけながら長期記憶へ移していきます。ただしワーキングメモリには限界があり、情報が多すぎたり、複雑すぎたり、周囲の刺激が多すぎたりすると、認知過負荷が起こりやすくなります。このような認知負荷を管理することは、学習課題への参加だけでなく、学んだ内容の保持にも影響します。[AERO]

つまり、「疲れる授業」は、受講者の努力不足ではなく、教材や授業設計の問題として起こることがあります。
認知負荷とは何か
では、そもそも認知負荷とは何でしょうか。
認知負荷とは、学習者が新しい情報を理解・整理・記憶する際に、ワーキングメモリへかかる負担のことです。認知負荷理論 (Cognitive Load Theory)では、学校や研修で扱うような意識的に学ぶ必要のある知識は、限られた容量・時間のワーキングメモリで処理され、その後、長期記憶に蓄積されると考えます。Sweller は、認知負荷理論を「最適な教育設計」(optimul instructional design) を決めるために用いられる理論として位置づけています。[Sweller 2024]
ここで大切なのは、負荷は「低ければ低いほどよい」わけではない、という点です。
学習には、どうしても必要な負荷があります。たとえば、生成AIの仕組みを学ぶなら、「プロンプト」「トークン」「LLM」「RAG」「評価」といった概念を理解する負荷は避けられません。一方で、スライドの配置が分かりにくい、図と説明が離れている、話の流れが見えない、不要な装飾が多いといった負荷は、本来の理解には必要ありません。
よい教材とは、学習に関係のない負荷を減らし、理解に必要な負荷を適切な順序と量で提示する教材です。
教材に関する認知負荷
学習における認知負荷で知られていること
教材設計を考えるうえで重要な理論の一つに、Richard E. Mayer の Cognitive Theory of Multimedia Learning (日本語では「マルチメディア学習の認知理論」) があります。
この理論では、人は文字・音声・画像・動画などをそのまま吸収しているのではなく、目や耳から入った情報を選び、整理し、既有知識と結びつけながら理解していると考えます。Mayer は、この理論の前提として、人には視覚・聴覚のような複数の処理チャネルがあること、各チャネルで同時に処理できる情報量には限界があること、意味のある学習には能動的な認知処理が必要であることを挙げています。
この視点に立つと、「動画を入れればわかりやすい」「図を増やせば理解が深まる」とは単純に言えません。
むしろ、動画・図・テキスト・音声の組み合わせ方を誤ると、受講者は内容を理解する前に、情報を探すことに頭を使ってしまいます。たとえば、スライドの左側に複雑な図があり、右側に長い説明文があり、講師が別の補足を話している場合、受講者は「図を見る」「文章を読む」「音声を聞く」を同時に行おうとします。その結果、理解に必要な処理よりも、情報を追いかける処理に負荷がかかります。

Mayer の理論では、学習中の認知処理を「不要な処理を減らす」「本質的な処理を管理する」「意味づけの処理を促す」という観点で整理できます。これは、研修教材をつくるうえでも非常に実践的な考え方です。[Mayer2024]
認知負荷を下げるためにできる工夫
認知負荷を下げるとは、内容を簡単にしすぎることではありません。大事なのは、受講者が「何に注意を向けるべきか」を迷わないようにすることです。
たとえば、教材設計では次のような工夫が有効です。
1. 先にゴールを示す
「この章では、RAGの定義を覚える」ではなく、「社内FAQボットが間違った回答をしないように、外部知識を参照させる仕組みを理解する」と示す。ゴールが具体的になると、受講者は情報の重要度を判断しやすくなります。
2. 一度に扱う概念を絞る
AI研修では、LLM、RAG、Agent、Embedding、評価指標などを一気に説明したくなります。しかし初学者にとっては、概念同士の関係がまだできていません。新しい情報は小さな単位に分け、明確な目標とともに提示することが重要です。
3. 図と説明を近づける
図はあるのに、説明が別ページにある。画面の上部にコード、下部に出力、右端に注釈があり、講師は別の話をしている。このような教材では、受講者は対応関係を探すだけで疲れてしまいます。Mayer のマルチメディア学習研究では、対応する言葉と図は近くに置く、アニメーションとナレーションは同時に提示する、といった設計が学習を助けるとされています。[Mayer 2012]
4. 余計な情報を入れすぎない
「せっかくだから最新ニュースも」「ついでに専門的な数式も」「参考までに論文名も」と盛り込むほど、教材は一見リッチになります。しかし、初学者にとっては、何が必須で何が補足なのかが分かりにくくなります。Mayer の整理では、学習目標に関係のない情報を除くこと、重要な構造を示す手がかりを入れること、重複した情報提示を避けることなどが、不要な認知処理を減らす原則として挙げられています。
5. いきなり演習させず、完成例を見せる
「まず自分でやってみましょう」は、ある程度知識がある人には有効です。しかし初学者にとっては、何を考えればよいか分からないまま試行錯誤することになり、負荷が高くなります。最初は完成例を見せ、次に一部を穴埋めし、最後に自力で取り組む。こうした足場かけは、複雑な内容を学ぶうえで有効です。
分かりやすい教材・分かりにくい教材
たとえば、生成AIの社内活用研修で「RAG」を教える場合を考えてみましょう。
分かりにくい教材では、最初から次のような説明になりがちです。
「RAGとは Retrieval-Augmented Generation の略で、外部知識ベースから関連文書を検索し、その検索結果をコンテキストとしてLLMに入力することで、事実性を高めるアーキテクチャです。Embedding、Vector DB、Retriever、Generator、Chunking、Reranking が重要です」
この説明は間違っていないかもしれません。しかし、初学者にとっては専門用語が多く、何のための仕組みなのかが見えません。
一方で、分かりやすい教材では、次のように段階を踏みます。
まず、「生成AIは便利だが、社内規程や最新のマニュアルを知らないまま答えることがある」という業務上の困りごとを示す。次に、「回答前に社内文書を探し、その内容をもとに答えさせる仕組みがRAGです」と説明する。その後で、検索、文書分割、Embedding、Vector DB、回答生成という部品を一つずつ見せる。最後に、実際のFAQボットの画面で、RAGあり・なしの回答差を比較する。
この順序なら、受講者は「何のために学ぶのか」「今どの部品を見ているのか」「実務ではどこに効くのか」を見失いにくくなります。
よい教材は、(本質的な) 情報を削っているのではありません。情報の出し方を設計しています。
どう伝えるかと何を伝えるか
AI で教材が作れる時代に重要なこと
生成AIの登場によって、教材制作のスピードは大きく変わりました。研修のアウトライン作成、ストーリーボード、学習目標の作成、研修コンテンツのたたき台、ナレーション原稿などは、AIでかなり効率化できます。ATDの2025年調査でも、AIツールを使うインストラクショナルデザイナーのほとんどが生成AIを利用しており、コース設計、学習目標、研修コンテンツ、ナレーション生成などに活用していると報告されています。
LinkedIn Learning の 2025 Workplace Learning Report でも、L&D (Learning&Development) 担当者の71%がAIを探索・実験・統合しているとされており、AIが人材育成の実務に入り始めていることが分かります。
つまり、「どう伝えるか」の一部は、AIで作りやすくなっています。見出し案、例え話、確認問題、動画台本、ロールプレイシナリオなどは、AIの得意領域です。さらに、先ほど述べた認知負荷の観点をプロンプトに入れれば、「一度に出す概念を減らす」「図解の説明順を変える」「初学者向けに専門用語を先に定義する」といった改善も行いやすくなります。
しかし、ここで見落としてはいけないのが、何を伝えるかです。
AIは、もっともらしい文章を作ることができます。一方で、事実と異なる情報や根拠のない情報を、自然で説得力のある形で出力することがあります。いわゆるハルシネーションです。Nature掲載の論文では、AIハルシネーションについて、AIチャットボットが架空・誤り・根拠不十分な情報を生成する現象として説明されています。[Yujie+ nature2024]
さらに、Harvard Kennedy School の Misinformation Review では、AIハルシネーションは、もっともらしく見えるが不正確な出力であり、ユーザーがAI生成物を従来の情報源のように信頼してしまうリスクがあると整理されています。
これは、独学において特に重要です。
すでに詳しい分野であれば、AIの誤りに気づけることがあります。しかし、これから学ぶ分野では、そもそも何が正しく、何が怪しいのかを判断する基準がありません。初学者は、AIが出した説明を検証するための前提知識をまだ持っていないのです。
だからこそ、AI時代の教材においては、「AIで作れるか」だけでなく、「誰が内容の正しさを見極めるのか」「どの順序で学べば実務に移せるのか」「現場で起きる例外や失敗まで扱えているのか」が重要になります。
Elith の講座
Elithは、法人向けAI教育プログラムにおいて、経営層からエンジニアまで対象に応じた講座を展開し、AIを「知っている」状態ではなく「業務で使える」状態を目指しています。
当社の講座の価値は、大きく三つあります。
一つ目は、インターネット上に明文化されにくい実践知・暗黙知が含まれていることです。
AI活用では、一般論を知っているだけでは不十分です。どの業務にAIを入れるべきか、どの段階で人間の確認を挟むべきか、PoCで何を見ればよいか、どの失敗が起こりやすいか。こうした知識は、検索すればすぐ出てくるものばかりではありません。Elithは、製造・金融・医療など幅広い領域でAI開発・システム構築支援を行い、現場で得た知見を教育コンテンツに反映していると説明しています。
二つ目は、手を動かせる形になっていることです。
AI研修では、概念だけを学んでも、現場で使えるようにはなりません。プロンプトを書いてみる、出力を比較する、RAGの構成を動かしてみる、評価指標で確認する。こうした体験を通じて、受講者は「知識」を「手順」として扱えるようになります。
三つ目は、情報の正しさと学習順序に責任を持つ講座であることです。
AIが教材作成を助ける時代だからこそ、教材の品質は「見た目のきれいさ」ではなく、内容の確かさ、順序の妥当性、実務への接続で決まります。Elithは、研究開発と現場実装の両面を強みとし、理論だけでなく「実際の業務でどう使うか」「現場でどのような課題が発生するか」まで含めて学べることを特徴として掲げています。
人材育成担当者にとって、AI研修を選ぶ際のポイントは、カリキュラムの項目数だけではありません。
- 受講者の前提知識に合わせて設計されているか
- 難しい概念を小さく分解しているか
- 業務で使う場面まで接続されているか
- AIの出力をうのみにしないための判断軸があるか
- 実際に手を動かす機会があるか
こうした観点が、研修後の定着を左右します。
学びがしんどいのは、受講者の意欲が低いからとは限りません。教材の設計によって、理解しやすさは大きく変わります。
認知負荷を適切に設計した教材は、受講者を甘やかすものではありません。むしろ、学ぶべきことに集中させ、実務で使える知識へと変えるための土台です。
AIで教材が簡単に作れる時代だからこそ、本当に価値があるのは、情報を並べることではなく、受講者が理解できる順序に整え、正しい知識と実践知を届けることです。
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